そんな今日この頃でして、、、

コード書いたり映画みたり。努力は苦手だから「楽しいこと」を探していきたい。

『言壺』感想

「言葉が思考を規定する」という発想を最初に目にしたのは何の作品だっただろうか。

一見すると、思考するから言葉になるのではないかとも思う。

しかし、そのような思索自体も脳内では言語によって行われている。

こと「意識的な思考」において言語を切り離すことは難しい。


嘘か真かは知らないが、「肩こり」という言葉の無い欧米では長時間の姿勢による筋肉の疲労を「背中の痛み」として認識するらしいという話を聞いたことがある。

また、エスキモーには多種多様な「白」を示す言葉があり、これにより僕らには同一に見える色を識別しているという話もある。

事程左様に言葉というものは単なる意思伝達のための記号以上の役割を持っている。

言葉には概念を抽象化する機能がある。

このことによって概念同士を組み合わせたより高度な思考が可能になり、また当人の中には存在しないものを新たに認識できる。


さて、表題の『言壺』という作品は、その言葉を主題として扱う所謂「言語SF」と呼ばれるジャンルの短篇集である。


言葉という概念が実体を持っている世界を仮定した「栽培文」や、小説が意味を消失した世界を描いた「没文」もなかなか面白いが、個人的に強く興味を惹かれたのはワーカムが登場する作品群である。

ワーカムとは、ネットワークに接続された人工知能による文章支援機能付きのワープロのようなものである。

あらゆる文章、そして対話までが人工知能を介して行われるようになった世界、そして言語を機械に委ねるようになった世界の仮定。


著者の神林氏は『戦闘妖精・雪風』シリーズやその他の作品群からも「ネットワーク接続された意思」というものに強い関心をもっていることがうかがい知れる。

(また、氏に限らず近年はそういう作品が多く見られる)

しかし、本作の規定するところのそれが特に秀逸なのは、その想定が現実的なところである。

ネットワーク接続されたIMEで統計的に「正しい」言葉遣いを用い、「真実」をWikipediaで確かめ、検索のサジェスト機能により視野を「定め」、実況により感性を「調律」する。

僕らが生きる現在は、94年に神林氏が夢想したワーカムのある世界に、実はかなり近い所に来ているように思う。


宇宙へ行ったりビームを撃ったりロボットと戦ったりもしない地味なジャンルではあるが、そこには言語の未知の領域への探求と戦闘以上のスリルがある。

ちょっと変わった「SF」が読みたい人にはオススメの作品である。

言壺

言壺