そんな今日この頃でして、、、

コード書いたり映画みたり。努力は苦手だから「楽しいこと」を探していきたい。

『コンクリート・レボルティオ』1期&『超人幻想 神化三六年』感想

アニメの方は二期を控えた物語の途中ということで感想を述べるには些か半端なタイミングな気もしたけれども、 気持ちが霧散してしまうのもなんなので書いてみた。

コンクリート・レボルティオ~超人幻想~ 第1巻 (特装限定版) [Blu-ray]

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超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫JA)

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本作は敗戦を経て復興した架空の昭和日本=「神化」を舞台として、 かつてブラウン管を彩った怪獣やロボット、変身ヒーローに魔女っ子が跋扈するクロスオーバーもの、 いわば日本版ウォッチメンのような世界観の作品だ。

blue1st.hateblo.jp

そして、そんな超人を発見し保護することを目的とした「超人課」を視点として、 なぜ人吉爾朗は超人課を離反することになったのかを四一年と四六年の2つの時間をまたいで描いたのがアニメ一期。

一方、アニメより前の時間軸となる三六年を舞台として、 テレビ脚本家の視点からとある超人にまつわる前日譚が描かれたのが小説『超人幻想 神化三六年』だ。


何度か述べているが、ここ数年ハマっているテーマが「社会の器としてのヒーロー」だったりする。

それに加えて小説ではSFミステリーの要素もあり、 好みにド直球な作品だった。


「超人」というニュアンス

本作においてキーワードとなるのが「超人」。

いわゆる「ヒーロー」と近いようで、もっと広い概念。

SFマガジン2015年12月号の記事にその意図が語られていたところではあるが、 個人的にはこのテーマ設定の秀逸さに惹かれた部分が大きい。

SFマガジン 2015年 12 月号 [雑誌]

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アメコミ映画の流行もあり、「ヒーロー」という言葉には様々な意味付けがされるようになってきた。

「力を持つことの責任」「善悪の裁定者」など、 直接的・間接的など様々ではあるが、 どこか社会的な役割としての文脈で語られがちである。


一方の「超人」はより生態に近いニュアンスのように思う。

人を超えた能力を持っていても、 それは必ずしも社会と接続した大きな目的には使われない。

ある者は静かに暮らすことを求め、 またある者は超常の力を興行のためにのみ使う。

怪獣を見る者は勝手に思想を投影するが、怪獣自身はそんなことにおかまいなく暴れる。


「何者か」であること

さて、そんな観点から本作を読み解くと、戦争やデモ、超人課の「保護」などに、 あくまで一個体である超人や怪獣に対して「何者か」であることを強要する社会の流れが見えてくる。

アメコミなどが半ば当然のように社会の器になることを求める風潮であるのに対して、 本作ではそのことそのものに疑問を呈する物語性なように僕には思えた。

ヒーローものにありがちな「正義のあり方」ではなく、 「正義にコミットすること」そのものへの懐疑。


思えばここ数年のネット界隈でも「どちらの陣営であるか」の表明を強要される場面が増えてきたように見える。

だが、確固たるものを持ってそこに判断を下せる者はどれだけいるのだろうか。

それができないことは悪なのだろうか?

そういった視点の設定に、僕はどうしようもなく面白さを感じてしまったのだ。



そんなこんなでテーマだけで個人的には満足度が高かった本作。

ハイコンテクストさがいささか視聴者置いてきぼりになっているように感じる部分もあり、 展開の臭さに閉口してしまう話数もあり、 単純に映像的に上手くないように感じられた部分もあったが、 それでも追ってみようと思う程度には好きだったりする。

本作の年数については現実の昭和の事件が反映されているとのことなので、 そのあたりを後追いで調べるのも面白い。

二期が楽しみである。