いつも選挙の時期になると「ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコか」みたいな表現が用いられるけど、今回の都知事選に関しては「ウンコしかないけど、どれ食う・・・?」状態なのが都民としては辛いところ。
普段はあまり時事に触れたことは書こうとは思わないのだけど、今回は細川氏が「脱成長」というワードを持ち出してきたのが個人的に極めて気に入らないために書いてみた。
「脱成長」に対してTL上でも
- これまで散々良い思いをしてきて、後の世代は我慢しろってか
- 過去にたらふく儲けて資産がある老人の逃げ切り戦略だ
- そもそも当人が相当に資産を持っているくせに「清貧」を指向するな
等々の批判は多いのだけれど、個人的にはそれとは別軸で今回の件には反感を持ったりする。
この「脱成長」話を見て、まず僕は父を連想した。
僕の父は何かにつけて子供の娯楽に対して理解が無かった。
特別貧しい家庭というわけでもなかったと思う(こういうのって大人になっても本当のところはイマイチ分からん)が、ゲームや漫画といった勉強に必要ないものはほとんど買い与えられなかった。
父の考え方の根底には自分の子供時代があり、そこに存在しない要素は我が子にもいらないとでも信じていたのだろう。
さながら「欲しがること」そのものが悪なように教育されてきたし、幼いころはそれに反論する力はなかった。
しかし、特に所属する集団を自分では選べない子供にとって、周囲と共通の話題を持てないというのは極めて辛いことだ。
休み時間の会話でも流行りのゲームやアニメや漫画の話題になると蚊帳の外だったし、僕には「友達と家で遊ぶ」という選択肢はなかった。
そんなわけで小中学の時分の僕は大人から見ればそれなりに勉強ができて遊びに呆けない「賢い子供」ではあったかもしれないけど、少なくとも自分の中では不満やコンプレックスが一杯あった。
(もちろん僕の周囲には子供心にも貧困を感じさせる家庭もあったし、知らないだけで色々厳しい家庭もあるだろう。それと比較して特別不幸だったなどと主張するつもりはないが、しかし選択的に可能なことを制限される理不尽さは感じていた。)
自分だけが変わらなかったとしても周囲は時代で変わっていく。
経済は今や一都市一国で完結するものではなく相対的なものだ。
好むと好まざると世界的な競争の中で生き抜いていかなければいけない。
仙人気取りで「無欲で賢く優しい」つもりであっても、それはよく見えていないだけで周囲に犠牲を強いる言説にしかならない。
(厳密にはあらゆる物事にはなにかしらの犠牲が伴うものだが、せめて無意味な犠牲より意味ある犠牲であるべきだ)
そんなわけで、僕はあの手の老人の退廃主義的な世迷い事には反吐が出るのであった。