そんな今日この頃でして、、、

コード書いたり映画みたり。努力は苦手だから「楽しいこと」を探していきたい。

『帰っきたヒトラー』感想、「悪」について

久々にSF以外のジャンルの小説でグッと来た。

翻訳小説でありながら文体は非常に読みやすく、主線となっているすれ違いコメディは軽妙で面白い。

そして、ひとしきり笑った後で、ふと考えさせられるものがある。

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 下

帰ってきたヒトラー 下


(作品が作品なんで予防線張るようなことを言うと、創作物を基に歴史や人物についてあれこれ語ってみることは無為だと分かっているのだが、それはそれとして作品は楽しむべきだというスタンスですたい。)


どんな作品?

1945年4月30日に自殺したはずのヒトラー。そのヒトラーがなぜか、現代のベルリンの空き地で目を覚ます。

彼は戸惑いながらも現代のドイツ社会を憂い奮起する。しかし、そうと知らない周囲の人々は、彼をパンチの利いたブラック・ジョークを放つ芸人だと思い、もてはやす。

誤解が奇妙に噛み合い、そして生来の類稀なる演説能力により、彼はタレントとしての地位を築いていく。


ヒトラー」「ナチス」観

本作は、なぜか1945年の自殺直前の知識のまま現代へとタイムスリップしてきたヒトラーが主人公。

ヒトラーといえばナチス首領として、今日ではさながら悪の権化のように扱われている。

アメコミやゲームでは敵役の定番として据えられ、そして遠く離れた日本においても嫌いな政治家を非難したい時に便利になぞらえて使われ・・・


創作の都合と、そして「悪そのものと定義しなければいけない」という政治の都合上致し方無いことなのだと思うけれど、過剰に「悪役」として演出されることによって、何か現実離れした人物像として描かれがちではある。

しかし、現実的に考えればそのようなことはあるまい。

少なくとも一定の合理性と共感性のある主張であったからこそ民主主義下で権力を握れたはずだし、それなりの人間的な魅力が無ければ支持を集めようも無かったはずだ。

(近年だとその辺を自覚的に使った作品なんかも出てきていて、『ヒトラー最後の12日間』なんかでは、普段は好々爺とした感じのヒトラーが「器」として総統になる感じが面白かった。)

ヒトラー ~最期の12日間~ Blu-ray

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さて、本作におけるヒトラーであるが、時代のギャップに戸惑い時に大いなる誤解をしながらも決してめげずに生き抜いていくタフさとストイックさに、妙に応援したくなるような好感が持ててしまう。

そして、彼の主張も極端ではあれどドイツ愛が根本にあり、それが民意と合致する部分があるため(ズレて伝わる所はあれど)民衆に歓迎されてしまうのだ。

(そういえば『ハーモニー』でもナチスの禁煙政策の話が触れられていた。彼らは最初から「悪」を標榜としたわけじゃなく、彼らなりに「善」の志向した行動が、後になって「悪」と評価されたに過ぎない。)

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

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作中のヒトラーは、屈折したところがあるとはいえ、概ね「いい人」で「賢い人」として描かれる。

ドイツ本国では本作におけるそういったヒトラー像への反発もあったようだが、僕なりにはこれは真を突いた描き方なように思う。

「いい人」だから「正しい」わけじゃない。「賢い人」だから「間違えない」わけでもない。


「悪」とは何か

作中の人々は彼のことを「ヒトラーの姿をし、ヒトラーの言葉を喋る」が「ヒトラーではない」人として捉えている。

僕なりに咀嚼すると、この小説は彼の人格と過去の「罪」とを分離する思考実験であると考えられる。

歴史的経緯を抜きにして「罪」を無いものとして考えた時、(根本に屈折した人種意識があるにせよ)彼を「悪」と規定できるだろうか?


他人の内面を覗くことなど出来ない以上、現代的な法治国家としては「罪」によって「悪」を定めるより他ない。

「悪」を恣意的に定めることは、それこそ差別に繋がるからだ。


そしてまた、何かを絶対的な「悪」として規定してしまうことは、時に重大な本質から目を逸らすことに繋がってしまう。



この小説はコメディの体裁をとり、実際コメディとしても非常に面白いのだが、しかし根底に色々と考えさせられるものがある。

現代のドイツの情勢や庶民事情について知らない手前、政治ネタやメディアネタが分からず風刺としては掴みきれない部分は少なからずあったが、根底にある「悪」についてのテーマ性は同じく枢軸国側であったこの国の人間としては非常に考えさせられるものがある。


日本でも「偏屈な親父」は、社会の主流となっている人々にとっては「自分と同じ価値観を持つ」「絶対に敵にならない」者として、ある種の安心感をもって受け入れられてしまうことが多々ある。

しかし、それが積み重なって「主流」がどんどん限定されていった先に待つのはディストピアでしかない。

と言うと左翼ウケしそうな言説になってしまうが、一方でそういったものを一義的に「悪」と定めるような発想もそれはそれで「万人のためのディストピア」の前兆であるように思う。

結局のところ、「〜はヒトラーと同じだ」「〜はナチスも行った政策だ」みたいな幼稚な批判ではなくて、きちんと「考える」ことでしかディストピア化を防ぐことは出来ないのではないだろうか。