もともとSFの中でもディストピアものは好きなジャンルなんだけど、この作品は特にツボだった。奇しくもITと個人情報の取り扱いが全世界的な問題となっている今日において、本作のテーマは非常に興味深い。
ユートロニカのこちら側 (ハヤカワSFシリーズJコレクション)
- 作者: 小川哲
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/11/20
- メディア: 単行本
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マイン社が運営する特別都市アガスティア・リゾート。その街の中で住民は音声や視覚といったあらゆるデータを企業に提供する代わりに富を与えられ、何不自由なく暮らすことができた。
情報銀行
本作でまず面白いと感じたのがマイン社をはじめとした「情報銀行」という業種。個々人が情報を納めることで社会的な信用のランクが担保されたり記憶をVRで再現するサービスが提供されたりする一方、銀行側は各種企業にそれらの情報を販売することで収益を上げる。そしてより詳細な情報を収集する一環として都市の運営があるのだ。
一昔前であれば「個人情報」は流出したとしてもセールスの名簿に使われるのが精々、気持ちは悪くはあるものの実際上さほど重篤な価値があるわけでもなく、一件500円程度というのが一般の感覚だったと思う。だが、近年では機械学習等の手法の発達とネットでやり取りされる情報の増加に伴って、個人情報の持つ意味合いが増している。
例えば長期的な健康状態の追跡データなどと組み合わせれば保険や製薬の企業にとっては未知の因果関係を見いだせる宝の山となるだろうし、現実に選挙コンサルティング企業がSNSのデータを活用することで大国の意思決定にすら影響を与えたと言われている。一貫した綺麗なデータを保持することが力となる時代なのだ。
だが一方で個人情報の取り扱いには様々な規制やセキュリティ対策の必要性があるため個々の企業にはハードルがある。そんな状況にあって、消費者にはメリットを提供しつつデータを集め、それらを適切に加工して企業に販売するという情報銀行という道具立ては非常にリアリティのあるものに感じられた。
いかに個人が嫌おうとも、社会が情報銀行を前提とした形になってしまうとそれに抗うことは難しい。Gmailアカウントでのログインしかできないサービスが増えれば、必然的にGmailアカウントを作らなければいけないように。
「全てが記録される」ということ
あらゆる情報が記録として残るようになった時、人はどうなってしまうのか。本作は言ってみればその思考実験のようなものだ。アガスティア・リゾートは過去の発言が削除不可能な状態でいつまでも存在し続けるSNSが実体化したような環境である。
想像してみると、僕は(そしてたぶん多くの人は)誰かに見られるとか悪用されるとかいった実際的な問題以前に、そういった状態になんとなく気持ち悪さを感じてしまう気がする。一章ではこの「気持ち悪さ」の正体を「間違えること」が許されない息苦しさであると説く。人間は長い人生を取り繕ったり、都合良く忘れたりしながら現実に軌道修正して生きていく。ましてや「正しさ」は時間と共に変化する。「自分にはやましいことの全くない、常に正しくあれる」などと考えるのはよほど高慢か想像力の乏しい人間だけだろう。
そして、物語の後半では集積されたデータの活用法として都市内の犯罪予知がテーマとなる。かつての『マイノリティ・リポート』では超能力者が担っていた犯罪予知を、アガスティア・リゾートでは集積データの情報処理によって実現している。莫大なデータから因果関係を逆算し未来を予測する。人がその複雑な中間処理を理解することはできず、しかしどうやらその予測は正確らしく、人々はやがてそれを神託のように扱うようになる。このあたりの描写が昨今流行のディープラーニング的で面白いやら恐ろしいやら。
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悪意無きディストピア
アガスティア・リゾートの裏側には悪辣な支配者もいなければ人類支配を企むAIもない。絶対の安心と安全を望む人の心とその実装が存在するだけだ。それ故に反対運動は大衆的な力を持つことはなく、テロリズムにしかなり得ない。そして人の理想に裏打ちされたそれを打ち倒すことができない。かくいう僕だって、もしアガスティア・リゾートへの切符があれば、そこ気持ち悪さを感じつつ一方で理想郷の魅力には抗えないような気がしてしまう。
以前に『楽園追放』の際に「特定の何者かの悪意が無いディストピア」を観てみたいと思ったのだが、本作は正にそこに踏み込んでいたと言える。
巻末の書評では微妙な評価を与えられているが、僕は本作の淡々と進む描写に非常に惹かれた。
- 作者: 小川哲,mieze
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/12/06
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