前回に引き続き録画を崩してこうということで、彗星のガルガンティアを消化。
この作品も典型的な「期待値高すぎて逆に気力が足りなくて観れない」系作品だったんだけど、期待に違わぬどころか期待以上に凄く熱い展開で、これはリアルタイムで観てTLで盛り上がりたかったなとちょっと後悔したり。
そんなわけで以下ややネタバレ含む。
「働く」ということ
人類銀河同盟の「社会」
本作ではかなりの話数をかけて、異邦人たるレドがガルガンティアの共同体において居場所を見つけるまでを描いている。(というか大きな枠で捉えると全てがそれに帰結するといっても過言ではない)
レドのいた人類銀河同盟では、ヒディアーズを殲滅することこそが人類の第一目的であり、全ての人はそのための役割を担う。
社会における役割こそが個人の存在意義であり、それを果たせないということは死を意味する。
視聴者の現代的な感覚からすればディストピアなことこの上ないのだが、しかしこれは現代日本における「職業観」のメタファーとして捉えられるように思った。
コストパフォーマンスを追い求め、最低限の対価で最大限の労働力を搾り取ろうとする。
そして、労働力を提供できない人間は否定される。
レドはガルガンティアでの生活で「役割を担うことで社会に関わっていく」ことを見出す一方で「役割を果たすだけの人」の虚しさも理解するようになる。
ストライカー vs チェインバー
終盤のストライカーの暴走は、一見古くからのSFによくある「狂ったAI」vs「人間」の構図のようにも見えるが、本作ではいささか事情が異なる。
ストライカーはあくまで亡きパイロットの意志を継いで「ヒディアーズの脅威を排除できる社会」を目的としているのに対し、チェインバー(というかレド)は「居心地の良い社会=ガルガンティア」を守ろうとする。
結局のところ、「社会のための人」か「人のための社会」かという2つの異なるイデオロギーの対決となっている。
社会と役割と存在証明
このあたりは、同じく虚淵氏が脚本の『まどか☆マギカ』でも描かれており、おそらく同氏が一貫して描きたいテーマ性の一つなのだろう。
「機械が全ての労働を担い、人は最低限の仕事をすればよい」というドラえもんで描かれた未来像は、残念ながら今のところ実現しそうにもない。
どこぞのポップソングがうたうような「生きてるだけでみんな価値がある」なんてぬるい社会観には全く説得力を感じることができない。
結局のところ、僕らは何かしらの価値を社会に提供して、その対価でもってメシを食って生きていくしかない。
ただ、そこにあっても「何のために働いているのか」について見失ってはいけない。
僕自身、社会人になってからまだ数年であり、「働く」「社会」という概念に強く思い入れがあるため、氏の『まどか☆マギカ』やこの『彗星のガルガンティア』はすごく刺さるのだろう。
通しで見ると、ガルガンティアの生活を長く描いた割にはヒディアーズの真相から最終対決までの展開がやたらと早くて、それこそ2クール位かけてじっくり話が進む感じだったら良かったのになと口惜しく思う。
そんなわけで、久々に円盤をポチる位には気に入ったのだった。
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